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齋藤 孝の「福沢諭吉『学問のすゝめ』を読む」(2014.03.12)

今から140年前、1874年の福沢諭吉『学問のすゝめ』の言葉を噛みしめながら
今こそ、「独立のすすめ」「創業のすすめ」を自らの心にしていきたいと思う!

齋藤 孝著『福沢諭吉 学問のすゝめ』NHK出版「100分de名著」2012年
抜粋編集/四木

政府の頂門に一針を加へ旧弊を除き、民権を恢復せんこと至急の要務なるべし。
わが目的とするところは、ただ天下の人に私立の方向を知らしめんとするのみ。

齋藤 孝の「福沢諭吉『学問のすゝめ』を読む」(2014.03.12)_b0320927_165759.gifしみついた「お上意識」

 わが全国の人民、数千百年専制の政治に窘(くる)しめられ、人々その心に思ふところを発露することあたはず。欺(あざむ)きて安全を偸(ぬす)み、詐(いつは)りて罪を遁(のが)れ、欺詐(ぎさ)術策は人生必需の具となり、不誠不実は日常の習慣となり、恥づる者もなく、怪しむ者もなく、一身の廉恥(れんち)すでに地を払つて尽きたり。あに国を思ふに遑(いとま)あらんや。政府はこの悪弊を矯(た)めんとして、ますます虚威を張り、これを嚇(かく)し、これを叱(しつ)し、強(し)ひて誠実に移らしめんとして、かへつてますます不信に導き、その事情あたかも火をもつて火を救ふがごとし。(……)近日に至り、政府の外形は大いに改まりたれども、その専制抑圧の気風は、今なほ存せり。人民もやや権利を得るに似たれども、その卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず。(第四編 1874年明治7年1月)

(わが日本全国の人民は、非常に長い間、専制政治に苦しめられて、それぞれの心に思うことを表現することができなくなっている。人民は政府をごまかし、安全を手に入れ、いつわって罪を逃れようとする。ごまかしの術が人生必須の道具になり、不誠実なことが日常の習慣になっているのに、これを恥じることもなく、疑問を持つ者もいない。「わが身の恥」という感覚は、まったくなくなってしまっている。これでは国を思うなどという余裕などあるはずもない。政府はこの悪習を改めようと、ますます権威をかさにいばり、おどし、叱りつけ、ムリヤリに人民を「誠実」にしようとしたが、かえって人民を不誠実に導くことになった。まるで火を使って火事を消そうとするようなやり方である。(……)最近になって、政府のスタイルはおおいに変わったけれども、その専制抑圧の気風は、いまだにある。国民もやや権理を持ったように見えるけれども、その頑迷で卑屈な気風は依然としてむかしと変わらない)

 福沢は国民に誇りと自信をもって政府と向き合えと言い続けました。それは、千年以上続いてきた封建社会の中で民衆にしみついた「お上」への従属意識はなかなか変わらないという嘆息にも似た思いがあったからです。

「新しい政府」「新しい国民」の外形らしきものはとりあえずできたが、中身のほうはまだまだ完成にはほど遠い。長く一方的な支配を受けてきたことによる悪習は容易に抜けないと言っています。人民には官尊民卑の考えがしみついていて、こびへつらいの卑屈の風が抜けず、依然として無気力だとも言っています。
 その理由は以下のように書かれています。

 そもそもわが国の人民に気力なきその原因を尋(たづ)ぬるに、数千百年の古(いにしえ)より、全国の権柄(けんぺい)を政府の一手(いつて)に握り、武備・文学より工業・商売に至るまで、人間些末(さまつ)の事務といへども政府の関(かか)はらざるものなく、人民はただ政府の嗾(そう)するところに向かひて奔走(ほんそう)するのみ。あたかも国は政府の私有にして、人民は国の食客たるがごとし。すでに無宿の食客となりて、僅(わづ)かにこの国中に寄食するを得るものなれば、国を視ること逆旅(げきりよ)のごとく、かつて深切の意を尽くすことなく、またその気力をあらはすべき機会をも得ずして、つひに全国の気風を養ひ成したるなり。(第五編 1874年明治7年1月)

(そもそもわが国の人民が無気力な原因を追究してみると、非常に長い間、全国の権力を政府が一手に握って、軍備や学問から、工業、商売に至るまで、世の中のどんな瑣末な仕事であっても、政府のかかわらないものはなかったことによる。人民は、ただ政府の命じるところに向かって奔走するだけだったのだ。国はまるで政府の私物であって、人民はその国の食客のようなものだった。すでに本来の宿を持たない食客となって、かろうじてこの国で寄食することができているようなものなので、国といっても仮の宿のように考え、深く切実に思うことがなく、またその気力を表す機会も持たないことになる。それがこのような日本の気風を育ててしまったのだ)

 商工業、軍備、学術に至るまで、日本では昔からことごとくお上(政府)が仕切ってきたために、国民は「国の食客」のごとくになってしまったと言うのです。お上の意向を考えずに目立つことをすると叩かれるという考えが習い性になって、自主性や独創性を発揮しようという意欲が育たなくなってしまったと。かくして、みなが「命令を待っていればいい」、もしくは「命令されるまで動いてはダメだ」、ひいては「何もしないのがいちばんいい」という精神風土ができあがりました。いわば、「一億総指示待ち人間」といったところです。
 日本人はいまでも物事の判断を人任せにする傾向がありますが、それは「お上意識」が依然として生きているせいかもしれません。
 こんな面白いことも言っています。

 古(いにしへ)の政府は力を用ひ、今の政府は力と智とを用ゆ。古の政府は民を御(ぎよ)するの術に乏(とぼ)しく、今の政府はこれに富めり。古の政府は民の力を挫(くじ)き、今の政府はその心を奪ふ。古の政府は民の外を犯(おか)し、今の政府はその内を制す。古の民は政府を視ること鬼のごとくし、今の民はこれを視ること神のごとくす。古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。この勢ひに乗じて事の轍(わだち)を改むることなくば、政府にて一事を起こせば、文明の形は次第に具(そな)はるに似たれども、人民にはまさしく一段の気カを失ひ、文明の精神は次第に衰ふるのみ。(第五編 1874年明治7年1月)

(むかしの政府は力を用い、いまの政府は力と智とを用いている。むかしの政府は民を支配する手段に乏しかったが、いまの政府はその手段をたくさん持っている。むかしの政府は民の力をくじいたが、いまの政府はその心を奪っている。むかしの政府は民の外面を支配していたが、いまの政府はその内面までを支配している。むかしの民は、政府を鬼のように思っていたが、いまの民は政府を神のように思っている。むかしの民は政府を恐れていたが、いまの民は政府を拝んでいる。このままの勢いで、国の行くべき方向を改めないならば、政府が何か事業をやることによって、文明の形だけは次第に備わっていくように見えるけれども、人民はますます気力を失い、文明の精神の方は次第に衰えていくだけだろう)

 昔の政府は、ただ「力」で圧政を敷いただけだったからまだましだったけれども、このたびの新政府は力に加えてなまじ「智恵」があるから始末が悪いというのです。当時の世の中には、鉄道や学校、軍隊、近代建築といった、それまでは想像だに及ばなかった文明の利器が次々に登場していました。そこで、こんな魔法のようなものを見せられたら、人びとは手もなくひれ伏してしまうに違いない、人民はかつて政府を「鬼」のように恐れていたが、いまは「神」のごとく拝んでいる、ヘタをすると、国民は自主的に行動する気力をもっとそがれるかもしれないと福沢は危倶したのです。
 そのような状況を打破して、「独立の気風を全国に充満させる」ことが、福沢にとっての使命だったのです。

「民カ」でいけ!

「有言実行」「言行一致」の人である福沢は、まさに彼自身が、そのお手本を示してみせました。
 それは、「私立」という発想です。「民力」と言ってもいいでしょう。彼は、「官(国)」に対抗する「私(国民)」の力というものを世に知らしめた第一人者なのです。この意義は非常に大きいと思います。当時の日本人には「お上至上主義」「官尊民卑」がしみついていましたから、いまでも何か事業を起こすときはすぐお上に頼ろうとし、また、「官途」という言葉があるように、ちょっと能力があると官の世界に入って出世しようとする傾向があります。ところが、福沢はその正反対の方向に行ったのです。
 じつは、明治新政府ができたとき、福沢にも「政府で働いてくれ」という声がかかりました。しかし、彼はそれを断り、自分はあくまでも「一私人」としてやっていくと宣言しました。福沢の能力はすでに多くの人間が知っていましたから、なぜ新政府に入らないのか不思議がられました。
 ときには、福沢は旧幕府に操(みさお)を立てている古い人間だなどとも言われたようですが、そんなことではまったくありません。彼の中には、なんでもかんでも「官頼み」はよくない、新時代の国民は自分の足で立っていかねばならないのだ、それこそ真に自立した人間なのだという強烈なポリシーがあったのです。
 考えてみれば、それ以前の社会では、出世といえば官の世界で出世することがすべてであり、民力でのしあがる者はいませんでした。例外として、商人の中に実質的に武士の上をゆく者はいましたが、商人の社会的身分が高くなかったことは言うまでもありません。ですから、「私」イコール「独立」と考えて、官に対抗しようと考えた福沢の発想はとても新しいのです。
 そのあたりも彼は熱を込めて語っています。

 青年の書生僅かに数巻の書を読めば、すなはち官途に志し、有志の町人僅かに数百の元金(もときん)あれば、すなはち官の名をかりて商売を行なはんとし、学校も官許(くわんきよ)なり、説教も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。ここをもつて世の人心ますますその風に靡(なび)き、官を慕ひ官を頼み、官を恐れ官に諂(へつら)ひ、毫(がう)も独立の丹心(たんしん)を発露する者なくして、その醜体見るに忍びざることなり。(第四編 1874年明治7年1月)

(勉強中の青年が数冊の本を読めば、すぐさま官への道を目指す。金儲けを志す商人に、いくらかの元手があれば、すぐさま政府関連の商売をしようとする。学校も官許。説教も官許。牧牛も官許。養蚕も官許。民間の事業のうち十に七、八までは官に関係している。このおかげで世間の人の心は、ますますその習慣に染まっていき、官を慕い、官を頼み、官を恐れ、官にへつらい、ちっとも独立の気概を示そうとするものがない。その醜態は見るに耐えない)

 なんでもかんでも官の世話になろうとするな、その「醜体(醜態)」見苦しいことこの上ない、と手厳しく言っています。

 もとより政(まつりごと)の字の義に限りたる事をなすは政府の任なれども、人間の事務には政府の関(かか)はるべからざるものもまた多し。ゆゑに一国の全体を整理するには、人民と政府と両立して、はじめてその成功を得べきものなれば、わが輩は国民たるの分限を尽くし、政府は政府たるの分限を尽くし、互ひに相助け、もって全国の独立を維持せざるべからず。(第四編 1874年明治7年1月)

(もちろん、狭い意味での「政治」をなすのは政府だけれども、世間のあれこれの事業の中には、政府が関係しないものも多い。一国全体を整備し、充実させていくのは、国民と政府とが両立して、はじめて成功することである。われわれは国民としての責任を尽くし、政府は政府としての責任を尽くして、お互いに協力しあい、日本全体の独立を維持しなくてはならない)

 政治は政府が行うものだが、その他のことは、国民が「私」の立場で行うほうがいいケースが多い。だから自分は「私」のほうで頑張る。政府は政府で「公」の立場として力を尽くしてもらいたい。そのようにして、互いによいところを出しあっていくべきだと言っています。
 かくして、福沢は民力を存分に発揮していくのですが、その活動の柱の一つは、教育者として慶應義塾という私立学校を作ったことです。彼は、自分はこれを真に独立した学校のつもりで作ったと言っています。というのも、「私立」以外の学校は「官立」ということになりますが、福沢に言わせれば、「官立」というのは「国のお金(税金)に養われて生きていく」ことであり、真の独立ではありません。逆に、国のお金の世話にならないでやっていくなら、完全に独立した、国と対等な立場だというわけです。
 彼の活動のもう一つの柱は、この『学問のすゝめ』を書いたように、在野のオピニオンリーダーとしてこの国の言論をひっぱり、日本人の精神を作り出していったことです。一八八二年(明治十五年)には新聞「時事新報」を創刊し、また、『文明論之概略』(一八七五年)、『分権論』(一八七七年)、『国会論』(一八七九年)、『時事小言』(一八八一年)など、著作も次々に発表していきました。
『学問のすゝめ』の中には、福沢が「わが輩の使命」として語っている有名なくだりがあります。

 わが輩まづ私立の地位を占め、あるいは学術を講じ、あるいは商売に従事し、あるいは法律を議し、あるいは書を著(あら)はし、あるいは新聞紙を出版するなど、およそ国民たるの分限に越えざる事は、忌諱(きき)を憚(はばか)らずしてこれを行なひ、固(かた)く法を守りて正しく事を処し、あるいは政令信ならずして曲を被(かうむ)ることあらば、わが地位を屈せずしてこれを論じ、あたかも政府の頂門に一針(いつしん)を加へ、旧弊を除きて民権を恢復(くわいふく)せんこと、方今(はうこん)至急の要務なるべし。(……)わが目的とするところは、事を行なふの巧みなるを示すにあらず。ただ天下の人に私立の方向を知らしめんとするのみ。(第四編 1874年明治7年1月)

(われわれが、まずしっかりと自分たちの立場に立ち、学術を教え、経済活動に従事し、法律を論じ、本を書き、新聞を出すなどして、国民の分を越えないことであれば、遠慮なくこれらを行い、法律をかたく守って正しく事に対処する。また、国の命令がきちんと実行されず、そのために被害をこうむったならば、自分の立場をおとしめることなくこれを論じて、政府に鋭い批判をする。古い習慣を打ち破って、国民の権理を回復させることが、いま現在、至急の要務なのだ。(……)われわれが目的としているのは、物事が上手くやれるということを示すことにあるのではない。ただ、世の中の人間に、官に頼らないあり方を知らせようとしているのである)

 自分は国民の分限を超えない範囲であらゆる事業をやり、天下の人びとに「私立」というものの意義を知らしめると宣言しています。
 「官」と「私」を比較したとき、それまでの人びとは、「官」のほうが絶対的に上だと考えていました。それに対して福沢は、今後この国が近代国家として進んでいくためには「私」のほうがメインパワーにならねばダメだと主張しました。これは画期的な考えであったと思います。
 こんなことも言っています。

 無芸無能、僥倖(げうかう)によりて官途に就き、みだりに給料を貧りて奢侈(しやし)の資となし、戯(たはむ)れに天下の事を談ずる者は、わが輩の友にあらず。(第四編 1874年明治7年1月)

(能力も技能もないのに、運がいいだけで官の仕事について、みだりに給料をむさぼって、ぜいたくをし、それでいて、軽い気持ちで天下国家を語っているような者は、われわれの仲間ではない)

 無能なくせに役人になって、給料泥棒のように大金をもらって、口ばかりの天下国家論を吹いているようなやつは、わが輩の友達ではないそうです。
 いまのわれわれでさえ、お上には頭が上がらないという感じは根強く残っています。百年以上前の明治の世に、自分は「民」でいくのだ、「私」で勝負するのだと決意した福沢の意志堅固さには見習うべきものがあります。
 彼はそれを「不羈(ふき)独立」の精神と言っています。

 その志を高遠にして学術の真面目(しんめんぼく)に達し、不羈独立、もつて他人に依頼せず、あるいは同志の朋友(ほういう)なくば、一人にてこの日本国を維持するの気力を養ひ、もつて世のために尽くさざるべからず。(第十編 1874年明治7年6月)

(志を高く持ち、学術の真髄に達し、独立して他人に頼ることなく、もし志を同じくする仲間がなければ、一人で日本を背負って立つくらいの意気込みをもって世の中に尽くさなくてはいけない)

 志を高く持って、誰も賛同者がいなくてもやれ、仲間がいなければ一人でもやれ、日本を背負って立つ気分でやれ、と言っています。やや大風呂敷ですが、この頼もしい感じが、明治日本の人びとに大いに受けたのだと思います。





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by sogyo-syuppankai | 2014-03-12 11:05 | 『学問のすゝめ』を読む


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